鏡を見る

「嫌いな人の嫌なところは、自分に似てるから目につくのよ」と母はよく私に言った。
でも私は必ずしもそうは思わなかった。

例えば、すごく嫌いな人がいるとする。
自分はその人と全く性質が正反対で、しかもすごく意地悪なことをされているとする。
そのとき、「自分に似てる部分がある」なんて思うのは、相手との共通点を探して、自分の中で折り合いをつけるなり、相手を許すなりしようとしているだけなのではないか、と私は思うのだ。

母は私に「人の振り見て我が振り直せ」を教えたかったのか、それとも私に問うてるようで、自分に言い聞かせていたのではないか。

1度だけ母にそのことを言ったことがあるが、半分わかったようで半分わかっていないようだった。別にそれでいい。

母がもしその理論で本当に潜在的に相手のことを許すために「自分と似ている」と言うのなら、それはそれで母の優しさだと思う。
また、「人の振り見て我が振り直せ」論で言っているとしても謙虚で素晴らしいと思う。
母は心が綺麗で博愛な人だ。

だが、私はその理論の両方とも、自分を痛めつけてしまう場合がある危険な理論であると思う。

似てなくても嫌なやつは嫌なのだ。
相手を無理に理解しようとしなくてもいいし、無理に謙虚でいなくてもいいのだ。

それに、嫌な人をなぜ嫌と思うかをしっかり分析するという点においてもその理論は良くない。

「多分似てる点があるから嫌いなんだろうな、はいおしまいおしまい」で、そこから先は何も生まれないような気がするから。

私は、相手を嫌と思う気持ちはしっかり分析したいから。
その分析の上での結論が「相手と自分の嫌なところが似ていて目に付いた」→「自戒的に頑張ろう」なら素晴らしい。自分の嫌な点がちゃんと見えてくるって、本当に偉いから。
でも、必ずしもその理由じゃない時もある。

・分析をさぼらない
(物事をしっかり見る)

・自己否定的にならない

という2点において、母親の理論は時に危険だと思う。(毒になる)





かと言って、相手が悪い!悪い!悪い!!という考えに固執している人に対して、こういう可能性もあるよと提示する場合は薬にもなると思う。

物事はバランスが大事で、そればっかりじゃ上手くいかないんじゃないかと思う

突然すみません