全て私に収束する お見通し

今日はずっと目のピントがどこにも合わない。仕方ないので、いつもより慎重に歩いた。目のピントが合わない日は、世界が見えにくくて仕方がない。慎重に歩かなくては。適当に履いてきたサンダルを、足の指で少しギュッとしてみた。

世の中のモテるオンナあるある、全て私に収束するように思えてきた。それと同時に世の中のモテないオンナあるあるも、私に収束するような気がしている。

誰かを自分の趣味にしないこと、生活の軸にしないこと。
私が生活の軸になって悩ましいような子は、可愛いから触ってみたくなるけど、触れてもしばらくすれば左様ならなのだ。逆も然り。私が誰かのことで一杯の時、例えば相手が私の相手をしてくれてようと、終了の二文字がずっと頭の片隅にあるのだ。


母と、テレフォンショッピングを見ていた。
「70歳とかのおばさんがさ、肌年齢診断を受けて、自分の肌年齢に対して、最悪〜もうダメです〜。って言うの。で、その後サプリメントを飲んだり、化粧水を使ったりして肌年齢が若返って、よかった〜って言うんだけどさ、マジで気持ち悪いよね。70にもなって老化を受け入れられてないの、気持ち悪い。」
母は、私みたいなことを言う。
逆だ。
私が、母みたいなことを言っているのか。母から産まれたため。
「オードリーヘップバーンは、自分が老いてからの写真も修正しないでってフォトグラファーに頼むらしいよ。シワのひとつひとつも、自分が獲得したものだからって」、
「さすがねぇ〜。でも、ママも同意見。シワ消すの、勿体ないよね」

こういう会話をする度に、母の子どもで良かったと思う。うちの母は、若作りをしない。
かっこいい。


いつまで美しくいれるのだろう、と思わない。
私が恵まれているだけかわからないが、しばらくはずっと美しいはず。

私が裸体のデッサンのモデルになりたいと言った時、「先輩、自己肯定感凄いですよね。」と言われた。昨年も「あなた自己肯定感凄いよね。」と、ほとんど喋ったことの無い先輩に言われた。

外見に対しての自信があるのではなく、わたしは、外見は本当にどうでもいいのだ。
パジャマで大学にも行くし、すっぴんで電車にだって乗れるし、逆に可愛い服を着て派手なお化粧だって出来る。容姿を褒められれば素直に嬉しいし、可愛くないと言われてもまあ別に可愛くないしなと思う(他人に可愛くないと言ってくる無神経さに対して呆れるだろうが)。

内面に自信があるから、外見は本当にどうでも良くて、だから自分を素材に出来るんだよ、と。

私の可愛いところも可愛くないところもダサいところも全部私なので、でもそこ含めて好きだから仕方がない。
長生きすればするほど、この容姿との付き合いは長くなる。
毎日大好きになっていけたらいい。老いも、シワも、なにもかも毎日私が好きになる。