都合のいい朝

本日は、なんとなく行った銭湯で体以上に心が温まる思いをした。いい休日であった。

地元の人しか来ないような温泉に行った。
お湯はポカポカで、私は目を閉じて体育座りの姿勢になり、ドクンドクンと体が感じる瞬間を待っていた。もうすぐです、とおもって。

私ともう1人お湯に浸かっていたおばさんは、おしゃべりすることも無ければ目を合わすこともなかった。お互い足を伸ばしたり曲げたり、段差に腰かけたり、肩まで浸かってみたり。時間にして20分ほどして、おばさんはあがっていったし、私は血管がドクンドクンという感覚に身を任せて目を閉じたままでいた。

これでももう十分だったのだが、脱衣所にいつのまにかたくさんのおばさんがいて、お喋りをしていた。
話の内容は、今日はもう浸かったのかとか、湿布を剥がして欲しいとかそのくらいだったのだが、私はとっても嬉しくなってしまった。
おばさんはみな私にも「こんばんはぁ」と声をかけてくれて、わたしも倣って「こんばんはぁ」とニコニコしながら返したのだった。

人生の行き着く先は、あそこだなあと帰りの車で考えた。
銭湯は大人200円、子どもは100円だった。
200円であんなに暖まれるなんて贅沢だ、この世の200円で最も価値が高いのは、あれなのかもしれないとさえ思う。
おばさん・コミュニティの洗礼を浴びるにはまだ早い歳だが。
きょうたくんは男湯で「今日は天気が良かったので湯の温度が熱くていい。曇りの日はぬるい」という情報を、おじさん・コミュニティの輪に入り仕入れたという。私たちはとってもラッキーだと思って嬉しくなった。


最近は4時なんかに寝るようになってしまって、4時が夜だか朝だかわからない。
寝るには微妙だが、他人について考えるには都合のいい時間である。
最近は、私の神様についてまた考えている。1度捨てたお人形を戻したとて、誰にも迷惑がかかることはないと高を括っているのだ。

人生において、この人が人生に登場してくれてありがたかったなと芯から思う人は、皆どれくらいいるのだろう。
もちろんみんな有難いのだが、特に考え方を変えてくれたり、自分にとって何かしらの影響力のある他者のことを考えるのでは。

寄り添ってくれる人に感謝を示しつつ、私に牙を剥いてくれる誰かもまた、有難いと思う。



私を罪と表現する時、私を罪に仕立て上げるのはいつだって私じゃない他人だと思う。
私を罪にしないで、私は何も悪いことをしていませんよと。私が悪いってことにすれば自分の気持ち悪さに向き合わなくて済むもんね。


与えている時、与えられているということにもっと多くの人が気づくべきなのだ。
施している時、同じくらいその瞬間に貰っている。私は、そこにいつも満たされている。
早く気づいて欲しいし、気づかない人に対してはあまり関わりたくないかもしれない。
真の意味での施しや善、施させていただくこと、私が二度とできないことなど。


また都合のいい朝が来る、今日こそ早く起きるのだ。