こんな記事書いておきながら、10代のときは変人と言われると悲しくなっていた。


ブラインドの隙間から月が見えた。眩しい。今日が満月かどうか分からないのは、私が乱視だからだ。

一歩一歩と歩いてきたのは自分なのに、何もかも自分の事じゃないみたいな時がある。努力も、種まきも、何もかも私がちゃんとやった事であるのに。

私が沢山悩んだことも、沢山嬉しかったことも、多くを両手に抱えすぎて、少しずつポロポロ落としながら歩いている気もする。
まあいい。誰かが拾って大切に使ってくれてもいいし、必要になったら取りに戻れば大丈夫だ。あれらはきっと私から逃げたりしないから。なんなら、待って〜!と付いてきてくれるかもしれない。


私にも、何者かになりたい時期が確かにあった。変だと思われたかった。凄い人になりたかったし、人に見て欲しかった。

例えば、何かしらの分野において、下を見てもキリがないが、上を見てもキリがないなと思う。技術や知識量は優劣がつく。私は…、と考えた時に、別に特出する何かなんて持ち合わせていなかったのだ。それが悔しかった。
絶対みんなには無い何かを持っているのにと思ったし、自分より凄い人がいたら凹むことを繰り返していた。
インターネットで目にする女の子たちの顔が可愛くて悲しくなった。私だってみんなに可愛いって言われるのに。


コロナで考え事をする時間が増えて、大学の友達と遊ぶことも無くなった。自分について考える時間が自然と増えた時、最初は毎日悲しくて、私ってすごくないんだなーとか、あと友人関係の希薄さみたいな物を感じて毎晩泣いていた。

しかし、ずっと考えていると、飽きてしまう。わたしはマイナスな気持ちが長く続くタイプじゃなかったみたい。
友人って友人だけど実際赤の他人だし、私がたまーに「みんな元気かしら?」と考えるくらいには、多分みんなも私のことを考えてくれているはずだ(本当に、たま〜に)。
それで十分じゃん。なんとなく、元気かなあと思い出せる友達がわたしにはいる、それでもう良いかなと思った。

あと、上を見てもキリがないので変な人になることは諦めた。

明らかに、尖ることや凄い人になろうとするのを辞めた瞬間があった。だって、なれないし。
変わってるすごいひとって、多分なりたくて変人になったわけじゃないのだ。なるべくしてなったというか…。好きなことやポリシーを貫いて、頑張ってきたから、他者のそういう評価はあとから着いてきてるんだな。

器じゃないのだ。
将来きっとビッグになりたいと思うが、もしなれなかったとしても、そういう人じゃ無かったのかなと思って受け入れられるかもしれない。


私は去年から今年にかけて、多くのことを良い意味で諦めているのですが、どう思いますか?


ちなみに、変人や尖った人になることを諦めて、凡人なりに好きなことをしようという意識になってからの方が変人と言われる場面が増えました。なんだこれ。