投了

知らない街の知らないお店で手に取った知らない国のお話。生きていくというのは、ほとんど死んでいくのとおなじ。食べるから排泄をする、排泄をしたからまた食べる。毎日は1個ずつしかなくて、それのほとんどを私が選ぶ。

九州の真ん中、小さな街の生まれ。母はふくよかで美しく、父はもうよく分からなかった。母も父も、生まれる土地も、どちらも全て私が選べないことだった。社会人になって東京に住んで、日々の全部を私が選べるようになってから、たまに生まれた街について考えた。帰ると街はいつもほとんど変わってないし、それを維持する生活というのは呑気でいて切ないように思えた。

井の頭公園を若い男の子と歩いた。背が高くて、美しい顔だった。若さというか未熟さについて考えた。歳の割に矜恃があり、素晴らしいなと思いつつも周囲より少しませているというのは時に残酷であるなとも感じる。他の人が考えないようなことを考えて生きるのは、賢さだけど、鈍感な方が楽に済むこともたくさんある。
私は人が何かの裏側について考える時、更にその裏の裏の裏まで考えるような、そんな学生時代だった。あと5回ほど裏側について考えてみると、全部世の中のことは逆にシンプルなんだと納得出来る、私には考える体力と知性があった。裏側について考える貴方について思いを馳せる。私のバイタリティは、どう考えても当時の運動部のそれより強かった。同じくらい考え事が出来ると勝手に思っていた相手、彼への誕生日プレゼントが先日届いたらしい。

魚が水の中でしか生きられないように、私たち一人一人にも生きるフィールドが決まっているのだ。ひかるちゃんは接客業じゃないと息が吸えないし、きょうたくんは創造性を求められるような仕事は無理だろう。
私は「女」がよく似合うし、結局自分の場所が元々決まっていて、それ以外の生き方はないのだ。人が羨ましく見えたとて、己は己の活躍出来る場所を見つけ、そこで息をして食事をして、家を建てて生きるしかない。
生きる場所を見つけられた時、私たちは生きてゆく=死んでゆく なのを感じられるだろう。
死にたいと思っているうちはまだまだ、自分の心の本当の声を聞くことが、自分を1番大事にするということ。部屋が綺麗だとか汚いとか、身なりが美しいかそうでないかなど何も関係ない。好きな人と喋って美味しいものを食べる。しあわせじゃない人を幸せにするためには、まず己を幸せに出来ないと説得力がないのだよ。