東京

人の暮らしが羨ましく見えるのは、書いてないところを想像できていないだけだ。書かれなかったこと、言われなかったこと、そこに本当がある。私はそれが嫌で、逆張って、最終的に何も持たない私だけ残った。何も書いてなかった。

明日死ぬと思って生きていた頃は悩みなんて無かった。何を優先すべきで何が大事で、何を切り捨てて生きていけばいいか手に取るようにわかった。己の執着に優先順位をつけ、ひとつひとつ遠くへ放った。そうして、学校にも行けなくなって、家にも帰れなくなったんでしょう。生徒でも、お姉ちゃんでも、子どもでも、何にも属さない瞬間が好きだった。
私に貼られたラベルを全部剥がして、皮膚呼吸をしたあとにまた1つずつ自分に貼って、生活に戻った。
例えばそれは1人の公園だったり、九品寺のラブホテルで、秋葉原の5畳半の部屋だったり、施錠がされていないボロアパートの屋上だったり、球磨川沿いの土手だったり、四谷の大きい神社の駐車場だったりした。

冬の朝が好きだった。夏の夜が好き、と言われた時、この人とは対極のところで生きているのかもと思った。僕と一緒だね、と言われた時、嬉しくなれなかった。私はどうやって生きたらいい。少しずつみんなが私を追い越して、私は動かなくて、溝こそ無ければ距離が出来た。どうせ死ぬのに、どうして私は生活に影を落としているのか。

冬の朝がやっぱり好きだ。冬の朝が好きな人も好きだ。水分が嫌い。乾燥して、雲ひとつなくて、潔白であってほしい。冬だけ冷静になれる。水分のある季節は余計なことをしてしまうから。雲もなくて、空気中の水分量も少なければ、宇宙にいつもより近くなる。早く迎えに来てね。東京の、四谷辺りで待っています。